飯田市街は7年に一度のお練り祭りでにぎわっている。春休みを終え上京する娘と桜の見物に出かけてみた。開花宣言以来桜は咲いたという認識=感覚が大きいが、標高、緯度によってずいぶん違う。市内でも南部の方は十分開いて来ているが、標高の高いところではまだまだ、おまけに午後には雪が舞い出す始末で春は来そうでなかなか来ない。上郷にある高松薬師堂は昨年から今年にかけて周りの施設も整備され、今まで寄りつきにくかった場所が駐車場も整備されて身近になった。
幹の頭部は樹木全体を守るために切り落とされているが、それにしても見事な枝垂れ桜だ。以前からこの時期になるときになっていたのだが、周りが整備された事でいっそう桜が世に出て、車も駐められこれから当分の館美しい色を演出してくれる。
2010年3月28日日曜日
2010年3月27日土曜日
中村ブレイス 中村敏郎社長 座談会
本日飯田市で行われた「南アルプス世界遺産登録フォーラム」にパネラーとして招かれた中村ブレイス(鳥取県太田市大森町)
肢装具士による医療スタッフの一員として義肢装具の製造・適合業務、義肢装具の開発を行い、全国と世界の各地で使用されているそうだ。最近では、メディカルアート研究所を設立し、乳癌術後用人工乳房”ビビファイ”や、身体のあらゆる部分の欠損や損傷を補正する”スキルナー”の研究・開発も行っている。
大森町は人口450人ほど、身近なところで1,000人を切って過疎だと騒ぐよりもたった一人の思いで若い人たちが居住するまちづくりにも興味が湧く。社長は本当にふるさとを愛し、人を愛しおごることなく夢を追い続ける人なのだろう。2枚目の写真、何でもない手に見えるが義手。シリコン性で爪もシワも指紋までも自然に出来ている。これこそ職人技。
http://www.nakamura-brace.co.jp/社長中村敏郎さん。フォーラムに先駆けて行われた座談会に出席してきた。開口一番何とも優しい紳士、全てにおいて口調が変わることなく全てが優しく行われる。彼は石見銀山遺跡を世界遺産登録するのに尽力された一人だ。おそらくその話はフォーラムで行われたのだろうが、35年前たった一人で10坪の築200年の納屋を改築し始めた肢装具。ドリルとグラインダーだけで始めたそうだ。京都で6年修行、その後大学を卒業し米国留学で技術を身につけそのまま直接ふるさとである大森町へ戻り開業。今日の話の中で何がポイントであったのか、「夢をあきらめない」しかもそれは「一歩一歩確実に前へ進む」と言うことだった。そしてふるさとを大切に思う心。これにつきるだろう。
肢装具士による医療スタッフの一員として義肢装具の製造・適合業務、義肢装具の開発を行い、全国と世界の各地で使用されているそうだ。最近では、メディカルアート研究所を設立し、乳癌術後用人工乳房”ビビファイ”や、身体のあらゆる部分の欠損や損傷を補正する”スキルナー”の研究・開発も行っている。
大森町は人口450人ほど、身近なところで1,000人を切って過疎だと騒ぐよりもたった一人の思いで若い人たちが居住するまちづくりにも興味が湧く。社長は本当にふるさとを愛し、人を愛しおごることなく夢を追い続ける人なのだろう。2枚目の写真、何でもない手に見えるが義手。シリコン性で爪もシワも指紋までも自然に出来ている。これこそ職人技。
2010年3月26日金曜日
2010年3月21日日曜日
靖国の桜
さて、東京へは何度も行くのだが、未だにいったことのない靖国神社とはいったいどんなところか…もちろん戦死者の皆さんがまつられ「靖国で待つ」といった言葉は我々の年代では十分承知している言葉だ。
境内を歩きながら、同期の桜や特攻隊…戦争にまつわるいろんな言葉が頭をよぎる。傍らにある 遊就館 などは入館料に不釣り合いな十分すぎる展示で他を圧倒する。それぞれのおもいが熱い証拠、時間とともにそれらが薄れていかないことを考える必要があるだろう。遊就館に関することは別の機会に書くとして、我々の年代、まだ戦争という言葉を十分に育つ課程で聞いてきた者たちにとってはこの年になって改めてその歴史にふれるよい機会になる。今年二十歳になった娘も、学校で学んであろうその知識の断片が一挙にここで結びつけられた様子であった。
たまたまではあるが、仰々しい報道の人たちが多くその能舞台の前にいたのは確かだが、それが何を意味するのか?妻が桜の撮影会では?というのですっかりそう思いこんでいたが、後にニュースで 桜の開花の判断 であった事がわかった。開花は明日という事ではあったが、同時に昨夜東京地方に吹き荒れた強風で桜の木が一本折れてしまった事の話題になっていた。参道を入ると左手すぐに一本だけ満開に近い桜が咲き誇る、とたんに 同期の桜 が頭を流れ出し、散り際、潔さ… いろいろな言葉が頭をよぎり出す。私は初めてなのでその桜の木一本一本にそれぞれの札が物語っている事も戦後60年を過ぎるという今にもその結果が生き続けていることが伺えた。賛否両論いろんな考えはあるだろうが、この過去の日本の事実は素直に受け入れ、これからをどうするのか?我々日本人民族の永遠の課題だろう。
2010年3月20日土曜日
卒業式
我が息子が今日、大学の卒業を迎えた。あっという間の4年間だった。思い出せば4年前、オリエンテーションを終えて思惑と違いふさぎ込み、後ろ髪を引かれながら入学式を終えて帰ってきた妻の悩みが全くの嘘の様に生き生きとして友達と自由にやってきたと思う4年間だった。どこの親も同じであろう、子を心配する気持ちは。と思っても我が子を心配するのは絶えることがない。卒業式に臨み、その内容よりは走馬燈の様に流れるこの4年間が我が子の卒業を本当に喜びに感じさせる。その時間がすめばまた新社会人としてやっていけるのか心配はつきない生活が始まるのはわかるのだが。
一番心を打たれたのは、卒業生を代表する女子大生の答辞であった。
最後の最後に味わった就職難航のつらさ、今後を見据えて少子高齢化が進む国での覚悟、学生から社会人への入り口にいる彼らの考えていることは大人だった。
私の卒業は25年前、その頃はこんな景気状態など考えられず、就職はほぼ皆決まっていった、就活などという活動も3年生からやるなど考えられなかった。思うに成熟した日本国がどうなっていくのか見当もつかないが、せめてまじめな若者もまじめに社会の一員として生きていく決意を持っていることは多くの大人に知ってもらいたい。
2010年3月14日日曜日
2010年3月6日土曜日
駒ヶ根市郷土館
今週は雨、明日は仕事。今までたまった写真の整理をしながら家の中で過ごすこととした。先週光前寺へ出かけたときに、駒ヶ根市郷土資料館と言うところを覗いてみた。今まで何度も通っている道端なのだが、車を停めじっくりと見たのは初めて。中に興味が湧いたのではなくその明らかな大正デモクラシー的な西洋的建物が気になってのことだ。入り口に書いてある紹介の能書きによれば、赤穂村、赤穂町、駒ヶ根市と3代にわたって使われた庁舎らしい。
以前にも書いたかもしれないが、私の妻は駒ヶ根育ち、駒ヶ根を訪ねる度に妻の幼少時代を想像する機会が多い。当然昭和のしかも○○年前の話であるから今のような裕福な状況での少女ではない。自転車を走らせこの周囲を走り回っていた幼少の妻を見てきたであろう建物に感謝。
2010年3月5日金曜日
南信州・飯田 写真集
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