2011年2月27日日曜日

思い出の鉄道遺産

少々変わったジャンルであるが、私にとっては幼少時代を思い出させる遺産。最近産業遺産という言葉をよく耳にするようになったが、山奥の立派な造成地に未だに崩れることなく産業工場が残っている。おそらく鉄道もそのジャンルに入る立派な産業遺産の一部と思われるが、「鉄道遺産」と言う言葉がどうやら存在するようであえてこの言葉としたが、文明開化とともに鎖国の遅れを取り戻すべく殖産興業のブームに不可欠なインフラの一部だ。過去のこういった遺物がその日本を今の地位に押し上げ、勤勉性とともに国を造り上げてきた。
幼少の頃、車に乗せられ豊橋に向かうとよく天竜川の縁に古い鉄道敷きと使われなくなったトンネルが道の遙か下に見えたものだが、その思い出をよみがえらせる光景。
飯田線の中では、多分1955年・佐久間ダムの建設に伴う路線変更が一番大きな変更であろうが、かつての国鉄、国を挙げての政策が実現されていた頃は一つの目的に向かって国民が一つとなってがんばった古き良き時代である。明治30年に始まる身近な飯田線の歴史を調べてもかなりの期間と歴史が存在するが、多くの費用と人員をかけ一度は現役を走ったこれらの産業遺産も引退すれば忘れられそのまま置き去りにされるのは寂しいものである。
画像は1982年(昭和57年)落石回避のために平岡~鶯巣間の路線変更に伴い廃線となった橋梁とトンネル。したがって私はこの鉄道橋を渡る電車に揺られていたはずだ。
枕木も線路も外されて単純な骨だけとなった今もそこにあるだけで多くの思い出や疑問、歴史を尋ねる機会を与えてくれる。

2011年2月20日日曜日

沢底の福寿草

寒く厳しい冬が終わりを告げる花のシーズンがやってきた。
青く冷たい雪や氷、南アルプスの積雪のイメージから日射しの暖かさを目に感じさせるシーズンだ。
辰野町の沢底地区、福寿草祭りを来週に控え少し早いとは思いつつ出かけてみた。既に歩道には案内看板が設置され、我々と同世代の夫婦連れが歩いていた。
南向きの法面に多くの福寿草が見られたが、まだまだ蕾が多く来週の祭典には丁度良いくらいと思われる。福寿草と言えば雪の合間から黄色い花を持ち上げるイメージが強いが、先週の大雪はどこかへ行ってしまい、その目で見える暖かさの中で小さな花を開花、開花準備を行っていた。
さて、ここ沢底地区に多くの道祖神があるそうだが、これが日本では最古の道祖神とされるもの。
刻まれた年号は永正2年(1505年)だからおおよそ今から500年前、その扱いが現存する道祖神の年号が確認できるものという事であろうから意外に年数が経っていないがそれでも人間の寿命からすれば相当に長い。関ヶ原の合戦の100年前には存在していた事になる。このような小さな集落は日本の生活文化の特徴だろう、おそらく都の派手な名称を訪ねる事を否定しなくても日本各地生活に根付いた文化は存在し、その中でこういった遺物が残され人々の生き様がこれからも刻まれていく。
救われるのはこういったものの対象の多くが夫婦である事だ。

2011年2月19日土曜日

浄心の滝

各地で春の訪れを告げるニュースが飛び交いだした。身近な所では鴬巣の梅の開花が新聞で照会され、いよいよ南信州にも春が間近に感じる季節になりつつある。
鴬巣の梅園はまだまだ私が高校生の頃父と二人夜釣りを行いに行った場所で、夏の夜砂岸に寝ころんで真夜中満天の星を眺め、恐ろしさにも感じる静けさの中初めてUFO(未確認飛行物体)を目撃、あれから30年経た今でもあれはUFOだと信じている。
さてさて期待の梅はまだまだ、一部に開花は見られるものの見事な梅園という雰囲気ではない。それにしても残念なのは天竜川岸は砂岸から竹藪に変わってしまい、梅の面積は少なく荒れていく一方である。端から一時的に見に出かけて残念がっても私の身勝手と感じるが、古くからTVニュースに上がる開花の場所としては少々残念な状況だ。
梅園に行く道中、道路の脇に滝を見かけた。「浄心の滝」と言うそうだ。
こちらの方向へ足を向け、おそらく今までもあったであろうこの滝は旧道沿い、旧JR飯田線橋梁の奥に有りおそらく道端に看板など無かったであろうし、昔は昔で当たり前の情景だったのだろうが、昨今の人寄せブームで大きく世に出てきたのだろう。
結構立派、過去は4段だったそうだが現在は2段。滝壷横の平地には観音様が奉られ今は「寝たきり封じの不動様」といわれているそうだ。
暖かいようきに反して滝の下にいると寒さがきわまり手がかじかんでしまう。
遠い過去から自然崇拝は人間の信仰の中心であったがここでもそれを思わせる情景、ただ石仏には明治の刻みがありさほど歴史を感じさせないが、形に残す前人々が自然にここへ集まっていた事は想像がつく。
ただ、残念なのは滝の中断に赤いスプレーで線が引かれている事だ。一挙にさめてしまう。

2011年2月13日日曜日

富士山

朝高層マンションの一室から見る空は見事に青かった。妻や娘が掃除をする間に富士が撮れるという期待で足を運んだ。
このまちの駅には富士山が見られる富士見テラスというのが有り、見事に近代建築の合間から富士の姿を眺める事ができる、さらにこの通りを富士見通りと名付け区画を整理した事に感心し、感謝をする。それだけ古くから富士の眺めは生活の一部だったのだろう。
普段我々の生活では富士を見る事ができない、あらためてみようと思えば諏訪から甲府へ抜ける谷方向へ出向かなければならない。天気さえ良ければ富士を眺められるこの地に生活する娘はもう当たり前の景色なのだろうが、あえて富士を意識したときには貴重な景色である事を感じて欲しい。

八ヶ岳

昨日、一昨日とは打って変わっての快晴、青空が見えると妙に雪山を撮りたくなる。
期待を寄せながら中央道の帰り道、いつもと違った八ヶ岳を撮る事ができた。諏訪湖畔、蓼科から見る八ヶ岳よりはさらに南に回り込むので噴火で吹き飛んだ山容は見る事ができないが、それだけに新鮮な山並みに写る。
参考) http://wadanoko.blogspot.com/2010/01/blog-post_31.html
過去富士山と八ヶ岳のけんか話は記述したとおりだが、そのけんかのあと富士山のつぶやきが「奴がたけー」だったと新たな昔話も最近耳にした。

2011年2月12日土曜日

上野 東照宮

湯島天神からあえなく 不忍池 がある。ここは元々競馬場。確かに行ってみると周遊する歩道がそのまま競馬場となる様子が分かる。今放送中のサザエさんのオープニングにも新旧比較のテーマでこの不忍池が出てくる。
あいにく吹き付ける雪の中湖面を渡って不忍弁財天をお参りし、上野公園に上がって東照宮へ。これもまたその名の通り徳川ゆかりのものだ。「冬牡丹」祭りが開催され積雪が残る園内には一見ネズミ男のようなわらの笠をかぶった牡丹の花が見頃を迎えていた。
大きな灯籠、雪、牡丹を構成すればここが東京かと思わせる奈良の様相を思わせてくれる。

社殿は現在改装中で上部はご覧のように工事用のシートがかぶっている。
東照宮と言えば当然日光東照宮ではあるが、湯島聖堂に始まったお茶の水から上野の夫婦ぶらりたびは、東京というよりは江戸。徳川300年の歴史に根強く影響され育った文化が随所に見られ、また上野に東照宮などがある事自体があまり知られていないのはないかと思わせる発見の旅に終わった。
また次回、有名でいて行った事の無い旅を続けたい。
参考) http://www.uenotoshogu.com/

湯島天神

神田明神からさらに10分ほど、湯島天神がある。神田明神よりもまだ300年の歴史を持ち、学業の神様で有名、折しも受験シーズン、境内にはもう場所がないほどに絵馬が吊されている。
湯島聖堂の移転とともに天満宮が置かれたようだが、日本の文教の中心地、ここが日本の学問の中心地と言っても過言ではないのだろう、…と言う事でここが文京区である歴史を理解した気もする。
ただいまは丁度 梅祭り 開催中。頭痛が起きるくらいの寒さの中昨日からの積雪とともに梅の花が見頃を迎え多くの人出にぎわっていた。
周りが高層ビルに囲まれる中でこのような歴史物があるのは東京特有なのかも知れない。
参考)http://www.yushimatenjin.or.jp/pc/index.htm

神田明神

湯島聖堂をあとにして10分ほど歩くと、程なく神田明神にたどり着く。あの神田大明神だ。
歴史も古く1300年前から江戸の庶民を守り、あの徳川家康が関ヶ原の戦いの必勝祈願を行い見事に勝利をおさめた日が明神祭の日。それで縁起が良く徳川がひいきした神社である。
んー、徳川と言えば日光東照宮を思い出させる派手な色遣い、ここでもその勢いは十分に感じられる。田舎者には神田大明神と言えば神田と思えるが、この神田明神の所場は広い。参道は秋葉原の駅まで続き想像外に大きな構えとなっている。境内に入ってそれほど大きく感じるものではないが、人並みは多く盛っている。
参考) http://www.kandamyoujin.or.jp/profile/

湯島聖堂

さてさて、KYさんに更新の催促をされました。
定常的に見ていただける方がいる事は大変ありがたい事で、この場を借りて感謝申し上げます。
この連休を利用して10日の午後から東京へ来ております。主なる目的は娘の軽い引っ越し。一ヶ月間息子のアパートへ同居するための準備です。その件は昨日11日に事なきを終え、毎度ながら東京へ夫婦できたときはどこか一カ所観光をする事としております。
今回はお茶の水から上野へ、まずは「湯島聖堂」です。
昨日からあいにくの雪降りで東京でも雪が降る実感と、頭の痛くなるような寒さを体験しました。
基本は徳川時代の儒学の普及所だったものですが、関東大震災でそのほとんどが消失し再建されたものの様です。しかしながら御茶ノ水の駅から歩いてくると、一件異質な雰囲気を醸し出す塀に囲まれ、意外にも静かな雰囲気を保っています。塀の向こうには東京医科歯科大学の建物が高くそびえますが、ここだけの歴史を調べても林羅山など著名な歴史的人物の名前が出てきます。筑波やお茶女の前身。当然ながら儒学と言えば、"孔子"。一見して孔子と分かる像とともに何となく中国の少林寺を思わせる広い「大成殿」=昌平坂学問所が日本古来の建築物とは異なる時間を流れさせている。
参考)http://www.seido.or.jp/

最後にあの さだまさし の 檸檬(レモン)の歌詞を。。。。この頃の彼は暗い。

あの日湯島聖堂の白い石の階段に腰かけて
君は陽溜まりの中へ盗んだ檸檬細い手でかざす
それを暫くみつめた後で
きれいねと云った後で齧る
指のすきまから蒼い空に
金糸雀色の風が舞う

喰べかけの檸檬聖橋から放る
快速電車の赤い色がそれとすれ違う
川面に波紋の拡がり数えたあと
小さな溜息混じりに振り返り
捨て去る時には こうして出来るだけ
遠くへ投げ上げるものよ

君はスクランブル交差点斜めに渡り
ながら不意に涙ぐんで
まるでこの町は青春達の姥捨山みたいだという
ねェほらそこにもここにも
かつて使い棄てられた愛が落ちてる
時の流れという名の鳩が舞い下りて
それをついばんでいる

喰べかけの夢を聖橋 から放る
各駅停車の檸檬色がそれをかみくだく
二人の波紋の拡がり数えたあと
小さな溜息混じりに振り返り
消え去る時には こうしてあっけなく
静かに堕ちてゆくものよ

2011年2月5日土曜日

虻川渓谷

久しぶりに気合いを入れて冬の山へ。と言っても昨日は立春。意外にも厳寒を思わせる凍り付いた水辺はここ2日ほどの寒さのゆるみで溶け出してしまった。中央アルプスの南駒あたりの積雪も一挙に減り黒い岩肌が多くなってしまった。まぁ、このままこの冬が終わるとは思えないのでまた冬将軍はやってくるのだろうが。
砂防ダムの上流ではおそらく全面結氷したであろう湖面の氷は溶け出し、この渓谷特有のエメラルドグリーンの水が川底を現し、氷の下で元気に冬を越しつつある魚たちが泳いでいる。
撮影中対岸の山で大きな音が立ち、どこかで土木工事をしているのだろうと思っていたが、だんだんとその音は自分に近づき気がつけば湖面にはった氷の割れる音であった。遠くでは単純に音であったのが、近くでは氷同士が押し合いきしむ音も伴ってくる。ネイチャーパワー、自然の力と情景、生み出す力は何とも力に満ちている。

さらに上流に登ると、北欧フィヨルド氷河の河口にも見えるゴルジュ(この規模をゴルジュと呼ぶのか?)が目に飛び込んできた。勿論表面は氷、さらにその上に積雪を載せているのだがその下をくぐり抜けて流れ出る水は一段と音を大きく響かせ淵に流れ出てくる。
夏であれば落差のある良いせせらぎなのであろうが、今はその姿をかくして水を下流へ追いやっている。標高を抑える事を忘れてしまったが、そう高い場所ではないがおそらく日照時間と風の向きによって気温が上がらないのだろう。気温は-2℃、体感は風を伴いもう少し寒く感じ当然手はかじかんでしまった。

さらに上流。渓谷の両岸の山が高いので日の当たる場所は限られる。これだけ見ると春先の雪融けを思わせ、水車でも有れば完全に春なのだがそうはいかない。積雪は有るものの水位がまだ高いときから凍り出したと思われる水面はそこそこ厚さを保ち、なおかつその表面は「ナメ」ってテカテカ、この場所の厳しさを感じる。水は清く少し深くなると緑を帯びていっそう綺麗さを訴えてくる。

2/7 NHK 撮るしん 放送。1/40 F16 ISO200 450mm
さて、今日望んだ一番の奥。この奥へ登ればキャンプ場、分岐を経て新九郎の滝。とうてい雪道、いや氷道を30分以上歩いて滝をおさめる気にはならない。川沿いに走る道路からは死角だが、川辺に降りて歩けばけっこうこの様な情景が有る。氷瀑の出来方はおおよそつららが出来てそれがその表面水でだんだんと覆われて氷の塊となるが、この川の自然石を覆う綺麗な氷達も出来方は同じようだ。一瞬花嫁のウエディングドレスを思わせるような丸みを帯びたその形は冷たさの厳しさよりはなぜかしら清楚な、それでいて角のない柔らかさも感じさせる。